富士屋ホテル最大の個性は、
なんといってもその「建築群」
訪れたことがある人であれば、誰もが注目するその建築美。初代・山口仙之助が宮ノ下という古くから続く湯治場に、荘厳な洋館建築を実現させたエネルギーは果てしないものでした。日本に取り入れられていなかったリゾートホテルとしてのホスピタリティを海外から吸収し、いち早く建物、設備、サービスヘと展開した山口正造の先見と英知も現代に脈々と伝えられています。富士屋ホテルが時代と呼応して築いてきた建築群をご紹介します。
長崎大学附属図書館 所蔵
日本初の西洋式ホテル
外国人専用のホテル経営を志した山口仙之助は、箱根・富士山の景勝と、東京や横浜からの距離の近さ、温泉の存在から宮ノ下に目をつけ、明治11年(1878年)実質的な日本初の西洋式ホテルを開業します。このL字型平面の洋館は、横浜で洋館建築に携わった職人を連れてきて建てたと伝えられています。バルコニーやガラス戸は洋風で異彩を放つ一方、入母屋屋根は伝統的な和風建築。のちの富士屋ホテル建築同様の大きな唐破風の屋根のついた玄関をもっていました。残念ながら竣工からわずか5年後、宮ノ下大火で焼失しました。
現存する明治初期のリゾートホテル建築
アイリーは、宮ノ下大火の後、最初に建てられた建物であり、現在の富士屋ホテル建築群の記念すべきはじめの一歩であるといえます 。現存する我が国最初期のリゾートホテル建築としてもとても貴重です。
正面左右に突出部をつくり中央に唐破風を設けるという富土屋ホテル建築の大きな特徴は、このアイリーの時点ですでに確立されていました。
長崎大学附属図書館 所蔵
隠れ家という名の小さな洋館
明治19年(1886年)、現在の食堂棟正面付近に、2階建ての洋館が完成しました。くの字型の平面で、丸みを帯びて愛らしいデザインの建物でした。明治24年(1891年)の本館竣工後、本館との位置関係から「下の西洋館」と呼ばれました。大正9年(1920年)に温室の奥の高台に移築され「上の西洋館」と呼ばれるようになります。その佇まいから「ハーミテイジ(隠者の庵)」の名で永年親しまれてきましたが、昭和60年(1985年)、老朽化を理由に残念ながら取り壊されました。
新築
移築
増築
数奇な運命をたどるフォレスト・ロッジ
明治20年(1887年)、国道1号線を挟んだ早川沿いの敷地に、和風の建物が新築されました。この建物には避暑に訪れた幼少の昭和天皇も宿泊されました。明治末期に現位置に移築され、「フォレスト・ロッジ」と呼ばれるようになります。増築により客室を増やして利用されてきましたが、昭和12年(1937年)花御殿新築のため規模を縮小し、取り壊した部材は仙石原ゴルフ場へ移築・改造利用されました。フォレスト・ロッジは昭和35年(1960年)に建て直され、そして令和2年(2020年)お客様に愛された「フォレスト」の名前を受け継ぎフォレスト・ウイングとして生まれ変わります。
長崎大学附属図書館 所蔵
西洋式ホテルの中枢「本館」
明治24年(1891年)に新築された本館は、完成から現在に至るまで富土屋ホテルの中枢として機能し続けています。外国人客の宿泊を意識して洋風の意匠を基調にしながら、内外の随所に和風の意匠を加味した特異な建物です。正面中央に唐破風屋根の玄関ポーチ、左右に八角平面の突出部をつくり正面性を強調した左右対称の外観をもっています。明治~昭和期の度重なる増築・改造を経て、現在では新旧が混在した複雑な建物になっています。
純和風木造建築の旧宮ノ下御用邸
もとは内親王の避暑のために建てられた御用邸でした。温泉村人民総代であった山口仙之助が建設のために地元労働力を献納して褒章を賜るなど、創建当初から富士屋ホテルと縁の深い建物でした 。昭和21年(1946年)に下賜され富士屋ホテルの別館となり、日本の建築や庭園、茶の湯などの文化を外国人に紹介する場となりました。良質の材料を用いた瀟洒な純和風建築の随所には、宮廷建築家の優れた技能が発揮されており、雁行する建物と池、庭園の配置は伝統的な書院造にならっています。
写真中央の3号館「コージー・ハウス」は現存せず
双子の洋館
西洋館一号館「カムフィ・ロッジ」・二号館「レストフル・コテージ」は、日露戦争勝利後の好況期に建てられた客室棟です。デザインは軒が浅く、装飾が控えめで端正ですが、明治期の洋風建築の典型である天井や軒、階段の装飾、鎧戸付きの上げ下げ窓や、豪華な唐破風の玄関が存在感を放っています。比較的改造が少なく、富士屋ホテルの建築のうち最もよく創建時の姿が保存されています。
大正9年という年
温室
フィッシュアレイ
カスケードルーム
厨房
四号館
(大正12年竣工)
煙突
日本閣
大正9年(1920年)には本館の裏手に、和洋折衷の上品な建物「日本閣」、山の社交場といわれる「カスケードルーム」、最新設備が揃う東洋一と称された「厨房」、魚のレリーフをちりばめた廊下「フィッシュアレイ」等の建物や部屋が整備されました。この頃、山口仙之助が亡くなり、山口正造が代わって経営を担うことになりました。正造はホテル近代化の第一歩としてバックヤードの整備に着手したのです。これらの施設の数々は、その後約1世紀の間、富士屋ホテルのサービスを裏側から支えてきました。
食堂棟は富士屋建築のハイライト
関東大震災後、7年を経て初の大造営が食堂棟でした。鉄筋コンクリート造の1階が、木造の2階と塔屋「昇天閣」を支えています。良質な素材や細部の装飾には強いこだわりが感じられます。切妻の銅板葺き屋根や五重塔のような塔屋は、寺社風の意匠であり、高欄や壁の色使いも独特です。洋風で端正なそれまでの富土屋ホテルの建築とは一線を画し、新しい力強さを獲得しています。正造は2階のメインダイニングルームを“THE FUJIYA" と名付け、「これこそまさにフジヤ」という強い思いを表現しました。
花の竜宮城
花御殿は富士屋ホテル建築の集大成であり、富士屋ホテルの、そして箱根のシンボルとなっています。華麗な和風の意匠や複雑な屋根、赤い高欄付のバルコニーが特徴の独特なデザインに、設計者・山口正造の意図が強く反映されました。「花御殿」という名にふさわしく、客室はそれぞれ花の名前で呼ばれ、豪華な内装やルームキーには部屋名にちなんだ花のモチーフが散りばめられています。
時代が求めた近代建築
経済成長が加速する昭和35年(1960年)、かつてフォレスト・ロッジが建っていた高台に新館が建てられました。富士屋ホテルの客室棟のうち、最も新しく、山口堅吉が経営していた時代に新築された唯一の建物です。装飾の少ない外観や、同型の客室が整然と並ぶ構成は、極めて近代的でそれまでの富士屋ホテル建築とは明らかに異なります。しかし、時代に合った最先端のサービスを実現するべく新たなものを果敢に取り入れる精神は受け継がれているのてす。
さらなるサービスの向上に向けて
本館と食堂棟の裏側に建てられた「日本閣」「カスケードルーム」「厨房」「フィッシュアレイ」「4号館」などの大正9年建築群は、今回の大改修により解体され、新たに大きな4階建の建物が新築されます。この建物は「カスケードルーム」から命名し「カスケード・ウイング」と名付けられました。ホテルのバックヤードが充実したことにより一層質の高いサービスのご提供に努めてまいります。
富士屋ホテル建築の価値
日本の黎明期のホテル建築を保存しつつ、時代の流れのなかで紆余曲折して作り上げられてきた再現不可能な建築群。それらの建築は今でも、ホテルという役割を忘れることなく、最上級のサービスを提供しながら生き続けています。