HAKONE

箱根のリゾート化を牽引してきた
富士屋ホテル

箱根温泉は古くから湯治場として人々を癒してきました。明治時代以降は富士箱根の恵まれた環境が保養地、観光地として親しまれるようになり、その名を世界にとどろかせました。
深く険しい山道を切り拓き、それぞれの温泉への道を整備していったのは、富士屋ホテル創業者の山口仙之助をはじめとする当時のホテルや温泉宿の当主たちです。彼らの尽力なくして「箱根」を語ることはできません。箱根リゾートの成長の軌跡をご紹介します。

 

歌川広重/豊國「双筆七湯巡り」1854年 川崎・砂子の里資料館所蔵

SEVEN HOT SPRINGS OF HAKONE七湯

奈良時代から続く関東の名湯

箱根温泉は天平10年(738年)、釈浄定坊(しゃくじょうじょうぼう)が源泉を発見したことがはじまりと伝えられています。江戸時代に東海道が整備されると、「天下の嶮」と言われた箱根山を越える旅人たちの疲れを癒すとともに、様々な疾病の湯治場「箱根七湯(はこねななゆ)」として親しまれました。明治時代には、近代交通の発達とともに奥深い箱根に足を踏み入れ、高地の景観と温泉を楽しむ外国人が増えていきました。現在、富士箱根伊豆国立公園の大自然は関東圏から気軽に行くことのできるリゾート地として多くの観光客を魅了しています。

文窓・弄花「宮下全図」(『七湯の枝折 巻ノ五宮下の部』より)1811年 箱根町立郷土資料館所蔵

FUJIYA INN藤屋

宮ノ下温泉の老舗

山口仙之助が買い取った藤屋は500年の歴史をもつ老舗旅館でした。明治初期の宮ノ下の湯宿の記録には藤屋勘右衛門のほか、奈艮屋兵治、伊勢屋八右衛門、三河屋五兵衛、山田屋安右衛門の5軒の旅館があったと記されています。藤屋勘右衛門と記されている藤屋旅館の主人・ 安藤勘右衛門の先祖は、安藤隼人介という武士で、応永10年(1403年)に鎌倉管領の命で、新田義陸を打ち取ったと伝えられており、その恩賞として底倉木賀温泉の地を授かり、代々住みつづけた後、宮ノ下に移住したと伝えられています。

SEDAN CHAIRチェア

高原への道

古来、徒歩以外に箱根湯治場をつなぐ交通機関は日本人向きの小さな山駕籠しかなく、外国人客には不評でした。明治20年(1887年)に新道整備が完了し、人力車の通行が可能になりました。さらに「チェア」と呼ばれる新しい乗り物ができ、箱根の風景を高い目線から望むことができるこの乗り物は外国人客の人気を博します。また新道整備と時を同じくして横浜~国府津の鉄道が開通したこともあり、多くの観光客が箱根を訪れ、200人を超える担ぎ手が山中を往来しました。

長崎大学附属図書館 所蔵

STEEP MOUNTAIN PATHS険道

箱根の山は天下の嶮

東海道の要衝「箱根道」は、その険しさから多くの旅人を苦しめてきました。この秘境の地が温泉地、リゾート地として開発されてきた歴史は、山越えルートをいかに切り拓くかという歴史と歩みを共にしてきました。仙之助ら住民・地域の人々が苦心の末につくった「新道」は大正8年(1919年)に公布された道路法により国道1号に指定されるという名誉を得ます。大動脈である東海道を外れ、箱根に散らばる温泉宿をめぐる箱根越えのルートがとられたことは、日本道路史のなかでも意義の大きいことでした。

MOTORCAR自働車

富士屋の弁当箱

大正2年(1913年)の夏、長期滞在されたお客様が予約された貸切自動車が定刻に来ないという事態が発生しました。後日、その方より手紙で「富士屋ホテル滞在中の満足は、出発の瞬間に全て打ち消された。一流ホテルとして専属の自動車を持つべきだ」と忠告を頂きます。これを受け、山口正造は翌年3台の車から富士屋自働車株式会社を創立し、貸切自動車事業へ参入。36台の車をそろえるまでの事業に成長させます。箱根の山を駆け巡るバスは、赤く塗られたその姿から「富土屋の弁当箱」と親しみをこめて呼ばれていました。

自家火力
明治24年(1891年)

自家水力
明治26年(1893年)

水力事業
明治37年(1904年)

MlYANOSHITA POWER PLANT発電

箱根の山に電灯がともる

明治24年(1891年)の本館竣工と同時に、山口仙之助はホテルサービスをより向上させるため、火災の危険性が高い旧式灯火を廃し、電気による館内照明を計画します。外人商館横濱バグネル・アンド・ヒル商會より購入した45馬力の火力発電機によって発電は実現し、それは宮ノ下に初めて灯った文明の光となったのです。その後、水力発電に変更することで、火力発電よりも経済的で安全な電力源を得ました。さらにその快適さを地域全域に広めるため、明治37年(1904年)には広域電力供給のための会社を設立しました。

SENGOKU GOLF COURSEゴルフ

関東における最初のリゾートコース

山口正造が経営の任に就くと、大正6年(1917年)関東初のリゾートゴルフコースを仙石原に開場します。その頃、宮ノ下御用邸に避暑中の東宮殿下が仙石ゴルフコースを頻繁に行啓されました。開場後しばらくはゴルフ文化が日本に根付いておらず経営に苦心しましたが、関東大震災からの復興に伴い、ゴルフを楽しむリゾート客が増えていきます。仙石ゴルフコースは日本のゴルフ文化の先駆けとなるゴルフコースとして現在でも多くのプレイヤーに親しまれています。